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宗教は…名前の違う同じ箱

このニューズレターは著者デーヴィッド・アイクの承認を得て翻訳されたものであり、著作権は著者に帰属します。英語原文に興味がある方は、David Ickeのサイトから購読できます。

デーヴィッド・アイク、ニューズレター 2006年9月24日号

宗教は…

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…名前の違う同じ箱

みなさん、こんにちは…

またもや、宗教的怒りの週だったようである。もう少し正確に言うなら、またもや幼稚園の遊戯時間になってしまった。

ナチ教皇(ベネディクト16世)が14世紀のキリスト教徒の皇帝の言葉を引用して、ムハンマドは「邪悪と非人間的」なものばかりを世界にもたらした、と語ったがためにイスラム教徒を動揺させた。

実際のところ、公平に見れば、一言か二言、ことばを変えて言いさえすれば、彼の言ったことは真実に近かった。これをローマ教皇に当てはめてみると、「宗教は世界に邪悪と非人間的なものをもたらした」となる。

ほうら、このとおり、わずかに字句を変えただけで的を得た発言になった。宗教はこれまで人間の精神に対する疫病であったし、大規模な奴隷化と殺戮のための手段であり、傲慢で、見識に欠けて独善的にふるまう人のためにある説教壇であった。

無論、宗教を通じて自らの冷静と品行方正を表現した人々もいたし、私は宗教だけが「邪悪と非人間的なこと」を引き起こしたなどと言っているのではない。しかし、概ねそうしたことが言えるのも確かだ。

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危険: 宗教–真面目にとらないように

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教など、基本的には神の名の下における憎しみと暴力の歴史に関しては全く同じである。繰り返すが、こうした信仰の帰依者が皆憎しみを抱き暴力に訴える、と言っているのではない。大多数の人々は、明らかにそうではない。しかし、彼らはいずれも「聖典」で奨励されている、抑圧と暴力両方を手段とした忌わしき者としてかつての世界を巡った。

それらの聖典は、操作されたページの引用でもってほぼ何でも正当化しようとしても、それは両立しない。そうなったら「神」は分裂病患者でなければならない。

聖書やコーランを読んでみると、暴力的か平和的か、親切であるか報復的か、限りない弁解が見受けられるだろう。イスラム学者であるファリード・ザカリアは、次のように語った。「コーランは壮大であいまいな書であり、優美と矛盾に満ち満ちている。それは戦争への非難と闘争への扇動の中に見ることが出来る、寛容性の美しい表現力と、無宗教者に対する厳しい状況を。」

そして、聖書でも同じことだ。

コーランには、イスラム教が「平和な宗教」であるという主張を正当化する箇所がある。英国であれ、私が旅して回った中東であれ、私のイスラム教との経験では断然、親切で温かく迎えてくれる民族だった。ところが、コーランには恐ろしい暴力や強制を容赦したり促すくだりがある:

「第5章第36節から第38節までは、アッラーとその預言者(ムハンマド)に反対する者に対する4種類の罰が定められている。『神およびその使徒に対して戦争を仕掛けたり、力による争い、土地を通っての侵略危害に対する罰は、断頭による死刑、磔、互い違いに手足を切り落とすこと、あるいは国外追放せよ。それはその者たちに世の中で不名誉なことであり、悪しき行いの習慣をつける前にその者たちが悔い改めない限り、重い刑罰はあの世における重い刑罰であれ。そのような場合、神というものは赦し給うものであり、慈悲深いものでもあることを知れ。神を信ぜよ。神への務めを果たせ。神のようになるために道を求めよ。神の真理のために全力を尽くせ、されば汝に栄えあれ。』

この4種類の刑罰〈断頭、磔、互い違いに手足の切断、国外追放〉は状況次第で適用されるものであったが、これはイスラム教徒の侵入者が彼らの宗教を広めるために用いた手段の残忍さを示すものである。」

出典: サムエル・バキオキ博士 、『聖書とコーランにおける暴力(Violence in the Bible and the Quran)』

http://www.freerepublic.com/focus/f-religion/696408/posts

もし、イスラム教徒以外の人々に対する、暴力的なジハードあるいは「聖戦」を正当化する人がいれば、そうした正当化の根拠が見出せるのはコーランの中の記述である。同様に平和的な道を歩もうとする人は、その同じコーランに励みになる記述を見出すだろう。それは、その人がどの一節を取り出して読んだり解釈したりするかによって違ってくるものだ。

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「“イスラム教は凶暴だ”と言うやつを打ち首にしろ」

「イスラム教を侮辱するやつを惨殺しろ」

「地獄への自由」 イスラム教は「平和な宗教」だろうか?皆にとってそうではない

典型的にも、バキオキ博士は論述 『聖書とコーランにおける暴力』でコーランにおける武力に訴える教えを強調しているが、キリスト教の聖書には暴力を扇動する箇所などない、とまで主張している。これは、「僕の父ちゃんはお前の父ちゃんよりエラいんだぞー」式症候群であり、宗教的「論争」に拡大する。バキオキ博士は次のように書いている:

「そのような(イスラム教)手法は、神の王国のため男性と女性を獲得するのに、罪の償いとしてのキリストの犠牲を通して神の救済のすばらしい奇跡を讃えるイエスの教えと際立って対照的である。」

バキオキ博士のような人々は、「平和の王子・イエス」という説法では現実を回避できない。キリスト教は二つの契約の書から成る信仰であり、全体として、信念の名における殺戮と暴力の祈祷書であり、あるいは、むしろ支配と統制である。

各宗教は、単一のソフトウェアのプログラムによる精神的青写真である。そしてそのようなものとして、各宗教はちょうど政治で「政党」が行うのと同様に、同じ調子で踊り、同じ戦いを繰り広げるのである。同じ顔で、別の仮面をかぶっているというだけだ。

聖書は、イエスが次のように語ったと主張する:「私が道であり、そして真実であり、人生である、私以外を通じて主のもとにたどりつく者はいない」。コーラン版は次のように述べている:「復活の日における審判が下るのは、この世に生きている間中信じてきた者のみである」。このソフトウェアの他の表現は、「神に選ばれた民」というユダヤ教の信仰である。

「神は汝より我を好む…いや、いや!」

イスラム教はモーゼとイエスが本当に昔の神の預言者であったと考えている。しかし、ムハンマド(その支持団体に従う最後の預言者)は人間であった。端的に言えば、誰か分かっていた。 このように、旧約聖書、新約聖書およびコーランは、あらゆる明白な類似点、相互の関連、そしてその信奉者や布教活動の方法に関して、全体として見るべきものである。

これらは、「預言者の言葉を信じることによってのみ天国や楽園に行ける」契りも含まれ、実に頻繁に無宗教者を殺戮することは彼らの「神」の意思に仕えるものであるという信仰へとつながって行った。

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神のプログラム – 同じソフトウェア、別々の「英雄」

参照:『無限の愛のみが唯一の真実である - 他はすべて幻想である』

(Infinite Love Is The Only Truth – Everything Else Is Illusion)

これらの三大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教はバビロンおよびその信仰体系という同一の根源に由来するものである。キリスト教はバビロン教会がローマに場所を移してローマ教会となってから勃興した。話の詳細は私の「大いなる秘密 『The Biggest Secret 』」などの著書を参照されたい。ユダヤ教とその旧約聖書および他の経典はユダヤの民がバビロンに捕囚された後に編纂された。そして、コーランはこの両宗教の「英雄たち」を扱っている。

コーランは、聖書の天使ガブリエルによってムハンマド(570-632) に託したお告げに基づいて書かれたとされていて、コーランの聖典中に 織り込まれた旧約聖書と新約聖書の人物名は、イエスとモーゼだけでなく、マリア、バプテスマのヨハネ、アブラハム、アダム、エノク、ノア、ヒーバー、サラ、ロト、イシマエル、イサク、ヤコブ、ヨゼフ、ヨブ、エテロ、ダビデ、ソロモン、エリヤ、エリーシャ、ヨナ、アーロンおよびゼカリアがあげられる。

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モーゼ、イエス、ムハンマド – 異なる時代でも土台は同じ物語

新約聖書の「イエス」の物語は、数えきれないほどの古代の太陽神たちの物語の生き写しである。神の天使からムハンマドへの「啓示」と想定されているのは、イエスにとっての想定される「啓示」であり、モーゼのシナイ山での経験と想定されるものである。いずれも預言者と「神の教え」に従うために必要であり、「天国」に場所を予約することを伴っている。 「モーゼ」の何千年もの後になって、「彼」のことばは(モーゼが何者かを知っている者によって)ユダヤの「法律」として書かれた。「イエス」の何百年もの後に、「彼」の福音書は(イエスが何者かを知っている者によって)書かれ、それが新約聖書となった。そして、ムハンマドの没後(だいぶ経ってから、と言う論者もいる)、何者かを知っている者によって編纂された「神」からのお告げである「彼」の言葉がコーラン書となった。 もう一つの関連事項は、翻訳の問題である。聖書は歴史的関連についての誤訳と誤解がいくらでもある、と指摘されてきた。どうしてコーランについては少しも違っていないと言えるのだろうか?いや、コーランは神の言葉だから、そして神が間違っていることなどありえないからなのか?それこそ、他の宗教が言っていることだ。

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メモ:この薬物は、修道女になる習慣性効能があります。

「もうしわけないですが、カーニーさん…これは誤植だと想定します。」

クリストフ・ルクセンブルグ(ペンネーム)という学者は、ドイツ語でのみ出ている『コ―ランのシリア・アラム語式解釈法(Die Syro-Aramaische Lesart des Kora)』という本の著者である。この人は、コーランの初期の写本として知られるものを研究した。それは、母音と現代のアラビア語なら文字が指している意味内容を明確にするために用いる補助記号を使わないで書かれているものであった。

アラビア語は、同じようにして書かれたある種の文字どうしを区別するために傍点を用いる。たとえば、基本的な記号である

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はアラビア語では、補助記号がどこに打ってあるかによって5種類の異なる文字を表している。上記の例についてみると、5種類の文字と保持記号は次のようになっている:

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ルクセンブルグは、8世紀と9世紀にムハンマドの没後100年以上経ってから、補助記号や傍点がコーランの記述の曖昧な部分を「明確にする」ために付けられたと指摘している。別の言葉で言うと、コーランの記述は、聖書が各時代の信仰の在り方や政治的にも都合のいいように繰り返し校訂されてきたのとまったく同じように、「明確にする」人々によって再解釈されてきたのだ。

ルクセンブルグによれば、たとえば楽園で「処女」との同伴を楽しんでいるイスラム教徒に関する有名かつきわめて重要な一節は、本当はずいぶん違った内容を語っている、ということだ。

あの世で女性たちが長い列をなして待っていることが間違いないと思えば、殉教はもっと魅力的なものになること請け合いだ。しかし、ルクセンブルグは「処女」という語は、たんに「白」を意味する、女性の複数形の形容する語である‘hur’という語に基づいている、と指摘している。イスラム教の伝統では、‘hur’ という語は実際に処女を意味する‘houri’(天女)である、という主張になる。しかし、ルクセンブルクの説では、古代アラム語でも、そして初期アラビア語の定評ある辞書のうち少なくとも一種では、‘hur’が「白いブドウ」を意味するものだそうだ。

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‘楽園にようこそ…’

ルクセンブルグは、4世紀の著者による楽園の讃美歌と呼ばれていたキリスト教の経典にいたるまで、楽園を扱った記述のある箇所を辿っていった。楽園という言葉は、ルクセンブルグが示唆するところによると、アラム語で庭を意味する言葉に由来するもので、まさに水が流れて果実と白いブドウが豊富な庭、つまり古代の近東で尊ばれた奥ゆかしさを言うのが楽園の記述の説明である。

ルクセンブルグが観察しているように、白いブドウあるいは‘hur’を、‘houri’(天女) に由来する前途有望な異性の愛顧よりもはるかに納得できる。それはそれとして、志願兵を徴収する時に有効かも知れない。2001年の8月にイスラエルで自爆テロの実行犯を募ったムハンマド・アブ‐Wardehは、CBSテレビに対して次のように語った。

「オレは、自爆テロの志願兵[a bomber]に対し、国のために命まで犠牲にすれば神がどれだけ殉教者に償ってくれるかを説明した。君が殉教者になれば、神は君に70人の処女と70人の妻と永遠の幸せを与えうだろう、と。」

事実、コーラン以外の記述によれば72人と推定されるが、コーラン自体にはそんな数字などない。

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「信仰者よ、ようこそ。 … この美女たちは汝に与えるためのものではないが、

冷蔵庫に白いブドウを用意してあるよ・・・」

私たちは複数の宗教ではなくて、単数の「宗教」について述べている。それは大陸間をまたいで事業を行う企業が別々の支店を有し、別々のブランド名を用いているのと似ている。もっと正しく言うなら、それはコンピュータープログラムだ。

このソフトウェアに含まれるものは:

古代の誤訳と度重なる校訂を経た書が、誰が作者か、そしていつ書かれたのかを知っていて矛盾だらけの書を疑うことなく信じることは、疑問を持つことも許されない神の言葉だからである (聖書、コーランを参照)

(自分の宗教とその英雄たちを)信じることによってのみ、その人に神が天国・楽園へ通じる扉を開けてくれるであろう

もっと「進歩した」 信仰者には無宗教者を殺戮できることを意味する。神に選ばれた民ではないものは、改宗させるか、さもなければ死・・・である。

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「イエスの名の下でサタンの子たちを殺してしまえ

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「主の名のもとにサタンの民を火あぶりに処せよ …’

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「… 預言者の名の下で不信仰者を殺戮せよ…」

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「エホバの名のもとにゴイムを殺戮せよ …」

ローマ教皇や他の誰でも自らの属する宗教との関係で別の宗教を非難し始めると、偽善の悪臭が充満してくる。大宗教の経典は、各々の精神状態次第で「自由に選ぶ」ものである。その人しだいで、平和的な道を歩むこともできるし、聖典のページをめくりながら恐怖と流血を正当化することもできる。

間違いなく、経典が私たちを支配するのではなくて、私たちが経典を支配する必要がある。私たちは、不問のままの、猛毒を有する神聖不可侵な信仰のプログラムを解除することによってのみ、このことを実行できる。

そう、そうした宗教で若干いいことも見つけるだろうが、しかし、そのうち多くは誤訳され、操作されている。各時代の政治と宗教の絡みの中で書かれた明らかに馬鹿げたものである。

しかし、その言葉は、それが馬鹿げたことだと知りつくしている連中によって、人々が分割され、統治され、征服されるために利用されている。連中にとっては、選んだ神を信仰する大衆を手玉に取ることができる限り、そんなことはどうでもよいのだ。それが、キリスト教であり、イスラム教、ユダヤ教その他何であっても同じことだ。

そして、そうした人々は互いに対して独善的になり、自分たちが選ばれた者たちであり、王国へとつながる鍵を握っているのだと、何も考えもせずに信じ込んで突進する。

それは、我々が ローマ教皇の「誤った」発言に見たものだ。自分のケツを取り違えているなんて、なんて間抜けなんだ。ムハンマドの風刺漫画同様、映画の単なる一場面のようなものにすぎなかったのであるが、新たな宗教戦争の引き金となるよう、壮大な構想の次の段階に狙い目をつけられてしまっている。

そして、またもやレミングスのコンピューターゲームの中のタビネズミ(レミング)のように騙される。 しかし待てよ、彼らは常にそう仕掛けている。

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「どうすれば狂気の行進を食い止められるのでしょうか? … おお神様」

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「恐れることなかれ … イエスさまが正しく導いてくださる …」

[翻訳チーム:ゴルトしまじろう]

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